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2007年8月の投稿

2007年8月12日 (日曜日)

なじみロック、杵柄ロック

 認知症の人はなじみの物が身の回りにあれば、安心できると考え、早速夫にサツキさん(仮名)のなじみの物を持ってきてくださいと伝えた。・・・・夫はサツキさんの趣味だった文化刺繍の作品を2つ、立派な額に入れて持ってきた。それをサツキさんがベッドに横になった時によく見える壁にかけた。この位置は彼女が目覚めてすぐ、刺繍が眼に入るようにと考えたのだった。その他にも、夫と写った写真、普段使っていた萩焼の湯飲みと急須を棚にならべた。サツキさんの部屋には少しずつ彼女のなじみの物が増えていった。そのひとつひとつを見ていると彼女のこれまでの生活が垣間見えるように思えた。・・・・ある時、彼女の部屋を訪れた。すると、彼女は「なぜ、こんな場所に私のものがあるの?」と、不思議そうに聞いた。サツキさんは「わからない、わからない」と、繰り返し呟く、そして、私に「誰がこれを持ってきたの?」と尋ねる。ご主人だと言うことを伝えると「私をこんなところに入れて何処にいっとるか?」と夫に対して腹を立ててしまった。サツキさんは自分の持ち物が此処にあるのか不思議でたまらないようだった。(谷川良博:覗いてみたい先輩OTの頭の中.OTジャーナルvol40.No9.994-995.2006)

 以前は、常にリーダー的な存在で活動的だったAさん。今では歩行も覚束ない状態となり、閉じこもりがちな生活を過ごしている。どうにかして以前のような暮らしを取り戻せないかと試行錯誤していたところ、折り紙細工が好きで、友人にプレンゼントしたりしていたことを聞きつけた。早速、本人に誘いを掛けたところ快く承諾してくれた。ぎこちない手つきではあったが、昔取った杵柄で見事な作品を完成させた。ところが、3日目辺りから参加を拒否するようになってしまった。本人に理由を尋ねると「昔はもっと上手に作れていたのに・・・駄目になってしまった。もう以前の自分ではない」と言う。見事な作品と感じていたのは私だけで、本人には逆に無力感を感じさせてしまう結果となってしまった。

 その人らしさを重視したケアが大切であるとよく言われる。そして、その手段としてしばしば馴染みの関係やなじみの物、昔取った杵柄が用いられることがある。しかし、私達はなじみの物や昔取った杵柄を通して、思い込みや「○○さんは~な人」と固定化した視点でケアしていないだろうか。

 そもそも、「その人らしさ」とはどういうことなのだろう。その人らしさ、自分らしさ、言葉を換えれば個性とも言えるだろうか。個性とは「変わらないそのものの性質」のことだから、その意味では常に変化を続ける人間においては「個性」など存在しないことになる。そもそも、変わらないものとは何なのか?変わる必要がないもの・・・すでに出来上がったもの・・・完璧な状態にあるもののこと・・・そう考えるとやはり個性など存在しないことになる。しかし、私達はどこかでやっぱり「自分は自分である」と思っている。極論的に考えると「個性」はないのかもしれないが、私達の中には「長年培ってきた様々な性質」が存在しているのも事実であり、それが「自分らしさ」「その人らしさ」と感じている所以なのかもしれない。ただし、それは変わり行くものであることを認識しておくことが必要である。

 「なじみロック、杵柄ロック」に陥らないためには、限られた情報を元に、その人がどんな暮らしを築いてきたのか、その中にどんな意味づけがなされていたのだろうか、病気や障害が今の暮らしにどんな影響を及ぼしているのだろうか、何が本当にやりたいことなのか、やりたくないことなのか、そんなことに思いを馳せながら、「その人らしい」生き方に折り合いをつけていくための協同作業をやっていくことが大切なのかもしれない。

2007年8月 9日 (木曜日)

傍にいて・・・

 「ここが何処なのか?何で自分が此処にいるのか?分からなくなってしまうことがあるんです。・・・突然、そんな思いが襲ってくる・・・不安です。そういう時は、何もせずじっとしていることしかできない・・・」アルツハイマー病のAさんが怯えた表情で訴えてきた。

 病気の進行によって、自分と自分を取り巻く世界との繋がりが次第に失われていく。これを医学的に表現するならば、「見当識障害」ということになるのかもしれないが、当事者がどんな思いで生きているのか、それを知るためには一人一人の語りに傾聴していくしかない。クリスティーン・ブライデンさんは、「私は誰になっていくの?(クリエイツかもがわ出版)」の中で、認知症に侵されて行く思いを「小刻みの死」「まるで爪を立てて絶壁に張り付いているような感じ」と巧みな言葉で表現した。

 医療の現場で働く者が、しばしば陥りやすい誤りというか弱みは、医学モデルに偏重した視点で認知症をみて、心理的・社会的な側面を軽視してしまうところにある。認知症の人にどのような関わりが求められるのか?そのヒントは「病気をみるだけでなく人をみよ」の中に隠されているのかもしれない。

 Aさんに、不安になった時に私達に何ができますか?と尋ねた。すると「あなた達が傍にいてくれるだけでも随分気持ちが落ち着くんですよ」と教えていただいた。 

2007年8月 8日 (水曜日)

介護する人・される人

 介護の場面で「めんどうかけます。お世話になるばかりで・・・」という言葉をしばしば耳にする。認知症のため、これまでできていたことが次第にできなくなっていく。結果、お世話を受けることに負い目を感じながら肩身を狭くして生きている、そんな心境から出てくる言葉なのかも知れない。そんな時「困った時はお互い様ですから」と言葉を返すが、それは気休めでしかない。

 介護者が、「~してあげる」という気持ちが強ければ強いほど「介護する人」「される人」という融通のきかない人間関係が強固なものとなり、介護される人を一層生き辛いものにしていく。これは、「する人」「される人」各々の心の動き方や関係のあり方を想像してみれば容易に理解できるものだろう。

 以前、デイケアに100歳になるお婆さんが来られていた。デイケアに通うようになって、みるみる元気になられたのですが、長生きの秘訣を聞いても「教えん!秘密じゃ」の一言。杖を、肩に掲げ飛脚のような格好で元気に徘徊されていました。この方は家人に「あそこ(デイケア)の人が来てくれと言うから行ってやってる」「ワシは、あそこでは一番の人気者、自分がいつも主人公なんじゃ」と言われていたそうです。認知症の人自身が「~してやってる」とか「自分が主役」と思えるような関わりがあることで、「介護される人」の生き辛さは大きく変わってくるのではないでしょうか・・・。

 「介護する人」「される人」という一方通行の関係から訣別していく中に、認知症の人たちの自信や有能感を取り戻すきっかけが、生まれてくるのかも知れません。

2007年8月 6日 (月曜日)

認知症の人に愛情を持って・・・という前に

 先日、飲みに行ったときに飲み屋のお姉ちゃんに携帯のことで笑われてしまった。「ワーこんな化石携帯はじめてみたー!」だって・・・。そのせいではないのだが5年ぶりに携帯を換えることになった(ブログに綺麗な写真を掲載したかったのが携帯を換えた理由です)。

 どうやら、古いものには価値がないとでも言いたいらしい。それじゃ、老いや老人はどうであろうか?「人と物を一緒にするな!」と言われそうだが、新しさ、若さこそ価値があるという現代の社会的・文化的価値観は、私達の老いや老人の見方に多かれ少なかれ影響を与えているように思う。

 老人の処遇の歴史(「老いの人類学」青柳まちこ、世界思想社)(「嫌老社会」長沼行太郎、ソフトバンク新書)を振り返ってみると、昔から、老いや老人に対する冷遇(侮辱や隔離、放置、遺棄等)は確かに存在していたようだ。しかし、文化や経験の伝承者、あるいは家父長制などによって、社会的な役割や敬われる存在として、老いや老人に対する肯定的な価値が継承されてきたと思う。ところが、そのような制度や思想が崩壊、形骸化して、昨今は、老人に対するプラスのイメージを持つことが益々困難になってきている。

 また、市場経済のシステムでは、新しい商品と古い商品とのギャップが利潤を生む出すという仕組みがある。このようなシステム社会の中では、合理性や生産性の高い人間が要求されることになる。学歴偏重や脳活性化ブームなどもその影響にあるのかもしれない。今後益々激化していく市場経済システムの中で、私達は老いや老人に対するプラスの価値観見出すことができるのであろうか。老人達は、やがて社会の傍らに押しやられてしまうのだろうか。

パーソン・センタード・ケアの提唱者であるTom Kidwoodは「現代の産業社会、工業社会では、認知能力(記憶力、理解力、見当識、判断力など)に重きを置きすぎているが、「その人らしさ」を形作っているものには情動・行動形式・周囲との繋がり・愛着・個別性など様々な要素が含まれている」と考えていたようである。生産性や新しさに偏重した見方ではなく、ホリスティックにその人となりを理解していくことが、老いや老人、そして認知症の人達に対するマイナスイメージを払拭するには大切なのかもしれない。昨今、認知症ケアについて技術論的に語られることも多いが、その前に、老いや老人に対する社会的・文化的価値について再考してみる必要もあるのではないでしょうか?

2007年8月 3日 (金曜日)

自分が消えていく!

 クリスティーン・ボーデンさんが書いた「私は誰になっていくの?」という本を、以前読んだことがある。彼女自身もアルツハイマー病を患っているのだが、その本のなかで「まるで、私が少しずつ消えていき、違う誰かになっていくようだ」との記述がある。認知症という病を抱え生きるとは、どれほどまでに辛いことか、正直、私には分からない。分からないからこそ、当事者の声には真剣に傾聴しようと思っている。

 今日、私に不安な表情で「何で私はここにいるんですかね?自分のことが自分で分からないんです。お願いです・・・・家族に電話してもらえませんか?」と、ひとりの男性が訴えてきた。

 「自分らしさ」とは、過去・現在・未来という意識の繋がりや、自分を取り巻く人や物との関係性の中に生まれてくるものかもしれない。もし、そうならば記憶力や見当識の障害を持つ認知症の人が「自分らしさ」を保ち続けるためには、手がかりとなるものが必要になってくる。もし、自分自身がそうだったら、どんな手がかりを求めるのだろうか・・・・?大切な家族を忘れないように、自分の部屋には家族の写真を置いてほしい。OTの仕事はできなくなっても、何か人が喜んでくれるような役割を与えてほしい。そして、大切な何かが思い出せなくて困った時に、さりげなく手を差し伸べてくれる人が傍らにいてほしいと思うだろう。

 パーソンセンタードケアでは「ヒトが人として生きていくために最低限必要な心理的ニーズ」として、①安心の感情②特定の絆や結びつきを持ち続ける③社会の一員であり続けること④意味ある活動にたずさわること⑤過去との継続性の感覚を持つこと。これら5つのニーズを満たしていくことが大切であると述べている。確かに、「自分らしさ」を保つための手がかりが与えられ、このような心理的ニーズが満たされれば、なんとか「自分」を繋ぎとめることができるのかもしれないが・・・・。先ほど不安を訴えてこられた男性の場合、私たちは、どれ程までに彼の心理的ニーズを満たせていたのだろうか?と考えると只々反省するばかりです。

 

2007年8月 2日 (木曜日)

認知症の人に嘘をつく

今、私が担当している実習生が「認知症の人と関わるときに、嘘をついて安心させることも必要だと、他のスタッフに教えてもらったんですが、本当に嘘を付いて騙しても良いのでしょうか?良心が咎めて自分にはできません」と相談してきました。確かに、そういった対応で落ち着く方もいらっしゃるかもしれません。しかし、認知症の人に嘘を付いてその場をしのぐような対応はあまり好ましい関わりではないと思っています。行き当たりばったりの嘘でその場を凌ぐのではなく、その人にとっての真実を認めながら共感的に関わっていくことが大切なのではないでしょうか。例えば、目の前に一杯のラーメンがあったとします。「目の前に一杯のラーメンがある」というのは「事実」であり答えはひとつしかありません。しかし、そのラーメンの味をどう感じるのか、答えは人の数だけあります。「旨い」と感じる人もいれば「まずい」と感じる人もいるでしょう。でも、どの答えも間違えではなく、その人にとっての「真実」なのです。認知症の人が自宅にいながら「家に帰ります」という時には、いくらそこが住み慣れた家であっても、その人にとって、そこは自分の家ではないのです。「お母さんに合いに行く」という90歳のお婆さんの中では、その瞬間、母親が生きているのです。このように認知症の人、一人ひとりが、そのひとにとっての真実の世界の中で生きているわけで、その世界を理解し共感的に関わっていくことで認知症の人を良い状態(well-being)に導くことができるのではないでしょうか。「嘘をつくことも大切」と言った職員も、おそらく同じような意味で学生にアドバイスしたのだと思います。しかし、「嘘をつく」という考え方には、その場しのぎ的な対応や介護する側に都合良いように認知症の人をコントロールするといった、ニュアンスを感じてしまいます。これは単なる表現の問題だけではなく、介護者の関わり方にも大きな影響を与えてしまうように思えるのですが、皆さんはどう思いますか?

2007年8月 1日 (水曜日)

認知症のプラスに目を向ける!

  「月末は苦しいの、だから残り物でチャーハン作って!」妻に言わせると、元々チャーハンは残り物を使った賄い飯、だから工夫すれば大丈夫と言う。とりあえず冷蔵庫の中を覗いてみると、卵、ちりめんじゃこ、魚肉ソーセージがあった。アドリブが苦手な性格なので頭を悩ますが、これだけ材料があれば何とかなるかなぁと思いチャレンジ・・・。結果はというと、何とかチャーハンらしきものが出来上がった。子供たちは「お父さん、美味しいよ。お母さんよりも上手」だって。最近は、親を気遣う技を身につけたようだ。

 でも、残り物で旨い(?)料理を作るって、認知症の人の暮らしを支援していくことにどこか似ていると思いませんか?私たちは、他人の粗を探したり、問題を見つけることは得意なのに、良い所を見つけるのは意外に苦手なんですよね。私も、認知症の人に関わり始めた頃は、問題を見つけることばかりに囚われていたような気がします。最近は、ICFを使って全体像を捉えるようになりましたが、ICFの良いところはマイナスばかりでなく、プラスの面にもしっかりと目を向けていこうとするところにあると思います。

 認知症の人にとって「理想的(その人らしい)な暮らし」を支援していく時に、現状をアセスメントしますが、そこでは「何が問題なのか?」よりも「何ができるのか」「何が使えるのか」といったプラスの材料を探り出していく視点がとても重要になってきます。集めたプラスの材料で、その人らしい暮らしを創造していく。そこで足りない材料が出てきた時に治療的な介入を考えていけば良いのかなぁと思っています。このあたりが、残り物で旨い料理を作ることに似ているなぁと思うのですが・・・。それにしてもアドリブの苦手な私が、果たして認知症の人にとって「旨い料理」を作れているのやら・・・チョッピリ不安です。

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