人生・哲学

2009年6月 7日 (日曜日)

なんのために働くのか?

 先日、小学4年生の娘が突拍子もなく「大人は何で働くの?」と尋ねてきた。面白い質問だなぁ~と思い、友人や職場の同僚に同じ質問を投げかけてみたのだが・・・皆さん「なんだろう?」と首を傾げるばかり・・・。しかたがないので、自分なりに考えてみた。

 「人はなんのために働くのか?」・・・そう聞かれると、多くの人が「そんなこと分かりきってるじゃないか、働かなくちゃ生きていけないからだよ」と答える。

 つまり、生きていくためには食べなくちゃいけないし、住む所だって確保しなくちゃいけない。そのためには、当然お金が必要になる。だから、稼ぐために人は働かなくちゃいけないという訳だ。

 たしかに、生活の糧を得るというのは働く理由のひとつですよね。しかし、これだけ物資の豊かな社会において「働く理由=お金のため」というのは、あまりに不十分な根拠のように思える。

 仮に働くことの意味が、生活の糧を得るためだけであるならば、一生遊んで暮らせるだけのお金を手に入れた人々は、とっとと仕事なんて辞めてしまうはずだ。ところが、そんな状況に置かれた人たちも、やっぱり何らかの働く意味を見つけて働き続けようとする。むしろ、そんな人たちほど仕事に精力的であったりもする。

 アイシェアが20~40代の勤務者430名(男性50.5%、女性49.5%)に「もしも宝くじで3億円当たったら、仕事を辞めますか?」というアンケート調査を行ったところ、63.2%が「今の仕事を続ける」、9.8%が「仕事を辞めて起業する」と回答していた。驚くことに、73%の人が何らかの形で仕事に従事し続けようという堅実な姿勢を示している。http://release.center.jp/2008/12/0902.html

 この結果を見ても、お金は大事・・・・だけど、そのためだけに働いているんじゃないよなぁ・・・って思ってしまう。

 それじゃ、生活の糧を得ること以外の働く理由とはなんだろう?そう問われると、働きがいややりがいが働く理由のひとつとして浮上してくる。

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 「何のために働くのか?」その答えは、時代状況によって違ってくる。物資の乏しい時代、人々の関心は圧倒的にお金にあった。とにかく食べていくだけで精一杯。働きがいなんて二の次であった。しかし、状況が変化し、豊かな社会に移行するにつれて、お金の地位が下がり、相対的に「働きがい」が、働く理由として重要な意味を占めるようになっている。

 だから、やりがいのある仕事に就くために、自分の好きなことや自分に合った仕事を探し求めようとする。そうではない人たちも、例えば「皆がそうしているから自分も・・・」とか「とりあえず生きていくためには・・・」って感じで働いている場合でも、仕事を覚え、フロー体験を重ねていくうちに、仕事は仕事固有の論理を持つようになり、ただ生活のためと言うだけではなく、そこにはやりがいとか、働きがいとか、あるいは「これ」をとったら何も残らない、というように損得勘定を忘れて仕事にのめりこむようになる。そうなると、「働く理由=やりがい、働きがい」ということになるのだろう。

 しかし、すべての人が働きがややりがいを持って働いているわけではない。私自身、働き始めた頃を思い返してみると「働きがい」よりも何よりも、まずは自分の存在を認めてほしいという一心でやってきたように思う。

 先日、建設会社に勤めていた知人がリストラにあった。それまでバリバリと仕事をこなしてきていたにもかかわらず、肩叩きされたのを契機にすっかり仕事への意欲を失ってしまったと語っていた。

 また、退職間近であった介護職のAさんは、「仕事は私たちがやりますから、Aさんはゆっくりしておいてください」という後輩達の言葉に「もう自分は必要とされていないのか・・・」と思った瞬間、自分が社会からドロップアウトしたようで、居た堪れない気持ちになったと話していた。

 私たちが、いちばんつらいのは誰からも顧みられていないという思いではないでしょうか?Aさんの「社会からドロップアウトしたような思い」という言葉にもあるように、誰からも顧みられなければ社会の中に存在していないのと同じことになってしまう。

 人間は、自分で自分を意味づけできない存在です。自分という存在の根拠は、具体的な他者との関係の中で見出していくものです。だから、他者と関わり、時に褒められたり、感謝されたりしながら、何らかの形で他者からの承認を得る。そうすることで、はじめて社会の中で自分の存在意義を確認できるようになる。そして、それを実現する最も手っ取り早い方法が「働くこと」なのだと思います。

 ですから、人が働くという行為の根底にあるものは、社会の中で「自分の存在を認められること」という思いであり、そのような関係性を求めて私たちは働き続けるのだと思います。働きがいややりがいも働く理由のひとつですが、それらは、このような関係性の上に構築されていくものなのかもしれませんね。

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2009年2月 4日 (水曜日)

僕もバカになれるだろうか?

奇跡のリンゴ―「絶対不可能」を覆した農家・木村秋則の記録

著者:石川 拓治,NHK「プロフェッショナル仕事の流儀」制作班

奇跡のリンゴ―「絶対不可能」を覆した農家・木村秋則の記録

『奇跡のリンゴ』、この本には不可能とも言われた無農薬、無肥料でのリンゴ栽培。その実現に向け苦闘し、そしてその奇跡を成し遂げた木村秋則さんの壮絶な人生が綴られている。

 御存知の方も多いと思うが、NHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」で紹介され、異例の大反響を呼んだ人でもある。番組キャスターの茂木健一郎さんの呼びかけで、番組では紹介しきれなかった、そのすべてを書籍化し、皆に伝えようという主旨でこの本は完成したらしい。

 リンゴは農薬で作るといわれるくらい、リンゴ栽培にはきめ細かな農薬散布が必要と言われる。しかし、妻の千代子さんは、その農薬を散布するたびに1週間も寝込んでしまうほど農薬に過敏な体質であった。そんな妻を思いやる愛情が、無農薬栽培を始めるきっかけとなる。さらに、その後、たまたま町の書店で手に入れた福岡正信さんの書いた『自然農法』という本との出会いによって、木村さんは、さらに無農薬栽培にのめり込んで行くことになる。

 リンゴという果物は、農薬に深く依存した、現代農業の象徴的存在という。だから、リンゴの無農薬栽培は無謀ともいえる挑戦でもあった。害虫や病気との絶望的な闘い。次第にリンゴ畑は枯れ果て、見るも無残な光景へと変わっていく。一家の生活は困窮し、日々の食事も儘ならない状態になっていった。

 そして、結果を出せない焦りから、最後は自殺まで・・・・・。ところが、命を絶とうと覚悟して入り込んだ山中で、偶然にも探し求めていた答えを手にする。それは一本のドングリの木であった。農薬もかけていないのに元気に葉を茂らす姿。当然、その周りには虫や微生物や雑草など自然のあるがままの姿が存在していた。そこには、それらすべての命が、他の命と関わり合い、支えあって生きていた。もちろんドングリの木もその自然と繋がったひとつの命であった。そんな自然の力によって生み出された柔らかな土、この土こそが無農薬のリンゴを生み出す答えであることに気付いたのだ。そしてこの発見を契機に、少しずつリンゴの木に明るい変化が見え始め、9年目にして奇跡のリンゴを生み出すこととなった。

 もちろん、彼の偉業の影には多くの人たちの支えがあった。しかし、ひとつのことに徹底して取り組み、決して諦めない木村さんの並々ならぬ探究心こそが、不可能を可能にしたのだろうと思う。

 「・・・・バカになるって、やってみれば分かると思うけど、そんなに簡単なことではないんだよ。だけどさ、死ぬくらいなら、その前に1回はバカになってみたらいい。・・・・ひとつのものに狂えば、いつか必ず答えに巡り合うことができるんだよ・・・」と木村さんは言った。僕もバカになれるだろうか?少しでも彼の生き方に近づけたら・・・そんなことを切望する。

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2009年1月28日 (水曜日)

◆世界の異なる感触

 私たちは普段、目の前に広がっている世界を「それ自体として」確かに実在しているものと思い込んでいる。

 意識の外にあるものを見たり、聞いたり、触ったり・・・・そのような様々な感覚を通して得られた情報が、脳で処理されて、私たちの意識に浮かび上がってくる。そして「確かに○○だ!」という確信に至ると信じている。だから、意識の外に「客観的世界」があることを微塵も疑わない。

 ところが一方で、世界とは、「私にとって」意味と価値を備えたものとして、現れてくるもののことである、とも信じている。

 たとえば、出窓に置かれた金魚たちは、私にとって心癒してくれる可愛らしいペットである。また、本棚に並べられた数々の専門書は、仕事に関わる知識や技術を学ぶための大切な道具でもある・・・・。このように、「可愛らしいペット」「大切な本」と意味を付与された様々なものや事柄によって、私たちは独自の世界を作り出していく。それは、もしかしたら自分の死とともに消えてしまう世界でもあり、そんな意味の世界、つまり「主観的な世界」の中を私たちは生きているのである。

 この二つの世界はともに私たちの生の中にあって、共にそれなりのリアリティを持っている。しかし、決して矛盾したりすることなく、何らかの仕方で繋がっているのである。

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2008年7月 7日 (月曜日)

◆しあわせ再考!

Dvc00077  「彼氏はIT関連企業に勤めていて、年収1000万円以上。結婚したら子供は二人は欲しいわね~。マイホームも欲しい。広い庭には小次郎のような雑種じゃなくて、血統書付きのマルチーズを飼うの・・・」と中学生の娘が将来の夢を語る。幼稚園の頃に、「大きくなったらおじゃ魔女ドレミになるんだ!」と言っていた頃が懐かしい。中学生にもなると変にリアリティーが感じられて末恐ろしくなる。

 ところで、人はそれぞれに素晴らしい楽しいと思われることを思い描く。そのことは、当然、人によって千差万別である。だけど、素晴らしい楽しいことを求めるということは、そのことによって幸福を求めていることに他ならないわけで、すべての人は幸福になることを必ず求めている。だから、すべての人に同じ共通している「生の目標」でもある。

 だが、おそらく誰も「人はこうすれば幸せになれるのだ」と端的、普遍的な形では答えられないだろう。なぜなら、それは、人それぞれが具体的に人生を歩む中で見つけていくものだからという理由によっている。

 しかし、それでもなお「幸福」について考えようとするのはどうしてなのか?それは、「幸福」が人間共通の生の目標であり、「幸福」になるための良い手がかりを僅かでも得たいと思うからである。

 では、すべての人が必ず求めるところのその「幸福」とはいったい何だろう?どうすればそれは手に入れられるのだろう?

 それは、欲しいものを手に入れる、ということだろうか?相田みつをの言葉に「金がすべてではないがあれば便利、無いと不便です。便利のほうがいいなあ」というのがあるが、お金、健康、社会的地位、権力、恋人、若さ・・・・なるほど、自分が欲しいと思っているところのこれらを手に入れることによって人は幸せになることができる。

 しかし、これら外的条件によって満たされる幸福はあくまでも一時的なものである。

 お金にしても、健康や若さにしても永遠に存在し続けるものではない。だから、それを失う不安に常に苛まれながら生きていくことになる。また、外的条件が幸せの主軸になるならば、必ずだれそれの方が・・・といった比較価値で世界を見るようになり、どこまで行っても心は満たされない。だから、これら外的条件は人を幸せにするが、絶対条件にはなりえない。

Dvc00229  それじゃ、「幸福」とはやっぱり心によるものだ、ということになるのだろうか?

 ホメロスは、「人間は幸福よりも不幸の方が2倍も多い」といったが、確かに人は不幸な状況に度々遭遇する。人間には不幸なことはつきものである。そのような経験は2倍どころじゃないよ!とさえ感じてしまう。そんなとき、不幸を不幸と思わないですむような前向きな考え方で対処すればよい。つまり、何事も心の持ち方しだいなのだと考えることもできる。確かに、これも不幸を乗り切るための賢明な知恵かもしれない。でも、心の持ち方ひとつで不幸を乗り切ることはかなり難しいでしょう。人がそこまでオプチミズムな存在だとは思えません。少なくとも私にはできそうにもない・・・。

 しかし、ルソーの考え方は少し違っていました。彼は、「我々の欲望と、我々の能力との不均衡にこそ、我々の不幸は存在する」と言っています。例えば、目標とする大学に合格したいのに、その能力がないときや、事故で移動能力を失いトイレに行くことも儘ならないときなど、人は不幸な思いを抱く。つまり、不幸は、「私」が「あるべき私」「あり得べき私」でありえない、という痛切さの場所にやってくるのです。

 では、「あるべき私」と現実とのギャップにどう対応してゆけば良いのでしょうか?

 『ルソーの公式からは、不幸を回避するための条件は二つあります。 ひとつは、欲望を実現するための能力あるいは手段を高めること。・・・もうひとつは、欲望の対象の問題。例えば、子供がむしょうに何かを欲しくなり、しかしそれを手に入れることができないとき、その子は不幸を感じます。しかし、もし手に入れたものが変更されるなら彼は不幸ではなくなる。・・・中略・・・人は新しい欲望の対象が現れるまでは、それまでの自分の欲望に固執します。そして、そのことで不幸になるのです。

 また、私たちは回避できる不幸と回避できない不幸があることを知ることができます。このことはとても重要です。愛する肉親や友人などの死は人を必ず悲しませ、不幸にします。その人が自分の生きる大きな理由になっていた時、その不幸は考え方によっては消去できません。自分の心をなだめる時間を耐える以外にないのです。

 しかし、例えば私が、実現の見込みのない、つまり、不毛な欲望を持ち続けている場合、私は自分で自分を不幸に陥れています。だから、私は、自分の能力をスキルアップできる時は、黙々とそうすべきなのです。この条件が高められる可能性があれば、遠謀深慮してでもその時間を惜しむ理由がある。しかし、可能性がないときには、私の欲望は私にふさわしくないばかりでなく、私を苦しめ続ける原因になっていることに気付かなくてはなりません。』引用:竹田青嗣「愚か者の哲学」

 なるほど、このような心のありようで不幸に立ち向かえば、何とか乗り越えられそうな気もする。しかし、「あるべき私」がどうあれば人は幸福になれるのかよくわからないので、結局は「幸福とは何なのか?」と悩むことになる。

 でも、「自分さえ幸福であればよい」といった考えで、「あるべき私」を描き、幸福を追い求め続ける人間は、結局どこまで行ってもそれを手に入れることはできない。果てしない欲望のゲームの虜となって、絶えず「むなしさ」や「満たされなさ」を抱え、幸福のパラドクスの罠に陥ることになる。V.E.フランクルは「幸福の追求は、幸福を妨げる。もし、幸福になる理由が存在すれば、自ずと、つまり自然発生的かつ自動的に幸福は結果として生まれてくる。このことが、人間が幸福を追求する必要のないことの理由である」といった。自分にとっての幸福がなんであるのか分からない。しかし、今は分からなくても人生が自分に何を求めているのか?誰かのために自分は何ができるのか?そう考え生きていく中で、結果として幸福の存在に気付く。幸福とはそういうものなのかもしれない・・・。

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2008年5月10日 (土曜日)

年を取ったという自覚

 人生とは生きられた時間なのであって、その中には様々な思いが込められ、意味が含まれている。

 幼い頃を振り返り行く手に待つ死を見詰める時、流れ行く歳月は暦や時計の上を通過する単なる時間ではなく、人が生きることの輪郭を描き出します。言い換えれば、人生とは切り取った時間に意味を与えることに他ならず、年を取ったという自覚はそこに向けての第一歩であるに違いない。

 したがって、自分は年を取ったとの認識なしに生き続けるとしたら、それは自らの人生を単なる時間の流れへと解消してしまうことになるでしょう。

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引用:老いるということ (講談社現代新書)

著者:黒井 千次

老いるということ (講談社現代新書)

2008年2月 3日 (日曜日)

金魚に感じる原感覚

 今日は、午後から寒くなりそうだと天気予報で言っていたので、午前中のうちにいつもの散歩と太極拳をすませ金魚の水換えを行いました。地金たちも、水槽デビューして1ヶ月が経過。今までの経験では、飼育を開始して2週目、1ヶ月目に病気を発症するパターンが多かったのですが、今回は大きな病気もなく、恙無く泳ぎ回っています。

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 偶さかの僥倖か、徹底した水質管理と観察が功を奏したのかわかりませんが、いづれにしても一安心です。当然のことですが、元気に泳いでいる姿を見ると自分の心も元気になり、病み衰えていく姿を見れば自分の心も沈んで行きます。寂しいと感じる・・・。

 でも、何故そうやって共鳴しあうことができるのだろう?・・・もしかしたら自らをそれと同じに感じているからではないでしょうか。しかし、親しみの念は、自分とよく似た資質を持つ相手に対して覚える感情のはずです。姿かたちの異なる生物に自分は何を見ているのでしょうか。そう考えていくと、それは他でもなく『生命』の存在に気付くことになります。生命こそは、あらゆる生き物に共有されている本質でもある。だから、相対的に独立した存在が同じ生命として繋がっていく所に同じと感じる感情が生まれてくるのかもしれませんね。私たちは自分で思っている以上に生命としてのプリミティブな感覚のなかで存在しているのかな・・・。

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2007年10月25日 (木曜日)

幸せのかたち

 どんな時に幸せを感じますか?そう聞かれたらなんと答えるだろう・・・美味しいものを食べている時、ゆっくりと温泉に浸かっているとき、ギルバートオサリバンのCDを聴いているときもそうかな・・・そうそう、誰かに認められたり、大事にされていると感じた時もそうだなぁ・・・とこんなところでしょうか。あなたなら何と答えますか?

 あらためて考えてみると、自分が利益を得ることばっかりですね。確かに、これらによって幸せを感じてしまうのも事実ですが、どれをとっても外的な条件によって満たされたもの。だけど、幸せって外的条件だけで決まってしまうものなんだろうか?そもそも、幸せって何なんだろう?

 お金や名声、健康や若さなどの外的条件が、仮に幸せの主要な基準であったら、経済的に恵まれ、社会的な地位や名誉も獲得した人すべてが、幸せであるはずなのに、そうでないのはどうしてなんだろうか。逆に、極貧な暮らしをしているにもかかわらず、毎日を生き生きと暮らしている人がいるのはどうしてなんだろう。そう考えると、やっぱり外的条件は幸せを決定付けるものではなさそうである。

 むしろ、それを主軸に生きていくことは、幸せから遠ざかってしまうことになるのではないだろうか。なぜなら、お金にしても、健康や若さにしても永遠に存在し続けるものではない。だから、それを失う不安に常に苛まれながら生きていくことになるからだ。でもそれって、本当に幸せってことなんだろうか・・・。また、だれそれの方が美しいとか、だれそれの方が頭が良いとか、そんなことを私達はよく口にする。外的条件が幸せの主軸になるならば、必ずだれそれの方が・・・といった比較価値で世界を見るようになる。そうすると、自分がだれそれより優れていれば、幸せな気分になれるかもしれないが、そうでなかった場合、無力感に陥ってしまうのではないだろうか。その結果、幸せは遠ざかり、永遠に心は満たされないのである。そして、「自分さえ幸福になれば良い」という考えを持つようになってしまうのではないだろうか。

 「それじゃ幸せの大切な条件ってなんだろう?」と、妻に投げかけてみた。すると「他人を思いやって、誰かの幸せのために生きようとすることじゃないの。自分の幸せばっかり考えていたら、結局は他人に妬まれたり、恨まれたりするでしょう。そんなんじゃ幸せになんかなれないよね。ま~所詮、エゴイストのあなたには幸せは訪れそうもないことは間違いないわね」とあっさり。いつもの如くひとこと余計だが、確かに一理ある。自分だけの幸福を望み、追い求め続ける人間は、結局どこまで行ってもそれを手に入れることはできない。果てしない欲望ゲームの虜となって、絶えず「むなしさ」や「満たされなさ」を抱え、幸福のパラドックスの罠に陥ることになるのである。したがって、エゴを超越した立場で、誰かのために何事かを成す。つまり、「無私の愛」こそが幸せの大切な条件なのかもしれない。

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